社会学の学習



社会学の学び方、といっても、他の分野と大きく変わる訳ではありません。まずは、他の学問と同じように学び、同じように考えればいいのです。学び方や考え方、つまりテキストの読み方、参考文献の探し方、レポートや論文の書き方、それらはこの『学習のすすめ』の他の箇所に掲載されている通りです。では、社会学をどうしたら効果的に学べるのでしょうか。この点にフォーカスしながら、思いつくところを述べてみましょう。

 法律を対象にする法律学、経済現象を対象にする経済学、教育事象を対象にした教育学、と同じように、社会を対象にする、社会現象を対象にするのが社会学、と言えないことはありません。しかし考えてみると、社会ではない、社会現象ではないものとは、何でしょうか? 法律や法律に関わる人々やその行動も、経済システムも、生産や消費という行動や現象も、政治活動や国家の形成も、学校や教育もまさに社会現象、社会そのものではないでしょうか。ですから、法律学や経済学や政治学や教育学と同じ地平で、社会学を語るのは何か違和感を残すことになります。

 法社会学、経済社会学、経営社会学、政治社会学、教育社会学、それどころか、都市社会学、家族社会学、農村社会学、宗教社会学、犯罪社会学、文化社会学、労働社会学、科学社会学、知識社会学、組織社会学、文学社会学、演劇社会学、スポーツ社会学、芸術社会学、福祉社会学、看護や介護の社会学、医療社会学、さらには社会学の社会学、書き連ねていくだけで、この論考の全ページが埋まりそうです。ちなみに私自身の専門分野は、感情社会学であり障害者の社会学、ということになります。

 何でもありではないか、そう思われても、社会学は仕様がないでしょうし、実際に、そうなのです。私たちが住まう世界の中に社会が関わらない事象はないのですから、何に対しても、〜社会学を言うことはできます。

 これほど多くの、〜社会学(昔風の言い方をすれば、連辞符社会学)があるのですが、それらが社会学と呼ばれている以上、それらをひとまとめにする共通性があるはずです。それが分かれば社会学の基本の学習は終わったも同然です。

 学問という作業には、それぞれの分野に応じた研究対象と研究方法がある、と聞いたことがあるでしょう。それに従っていえば、社会学の対象と方法があってしかるべきなのですが、実は、社会学にはそれがありません。それが言い過ぎだとしたら、テキストとして標準的に学習すべき「対象と方法」が決められていない、ということです。だから、社会学という間口では、驚くほど多くの教科書が著されています。大きな書店に行けば、何十という数が並びます。無駄ではありませんから、数冊は読んでみましょう。しかし、初めて学習する人にとっては不便以外の何者でもありませんね。そこでここでは「社会学的」な態度を身につけるにはどうすればいいのか、という問いに代えましょう。

 社会学的な態度とは、社会学的なパースペクティヴ、つまり、社会学に特有のものの見方ということになります。さて大事なのは、特有の見方ということですから、何もそれが真実であるとか正しいということとは関係ありません.極端な色付きの眼鏡で世界を見て、その世界が赤色だと言えたとしても、それは赤色眼鏡をつけている限りです。青の眼鏡にすれば世界も青くなります。赤の世界も青の世界も「正しい」のです。このように言うと、眼鏡をはずして見た世界が真実だと言いたくなるでしょうが、その世界もまた眼球というレンズを通して見える世界にすぎません。社会学的態度にあっては、正しい世界はひとつではないのです。

 社会学的にものを見るとは、そのまなざしの先に「社会的なもの」を見るということです。まなざしが向かう先は、法律の世界でも、経営の世界でも、病院や学校でも、何でも構いません。世界のあらゆる事象をまなざすことができます。感情社会学では、それまで生理的とか心理的な事象とされてきた「感情」を、社会学的にまなざした訳です。それは感情という現象の中に「社会的なもの」を見るということになります。ではその、社会的なものを見る、とはどういうことでしょうか。

社会的といっても、そこにいるのは個人個人です。個人個人が絡み合って社会なるものを作り出しています。それにもかかわらず、個人ではなく社会と呼ぶのはどうしてでしょうか、それは個人個人の振る舞いや考えや嗜好などに還元されない何かがそこにあるからです。たとえば福澤さんと小泉さんという二人の人物が互いに関わるとして、そこに現れる人間関係のすべての様相や行方がこの二人の人物に還元されるはずはないのです。たとえば、三田通りでこの二人がばったり出会います。互いに会釈しながら「こんにちは」と挨拶をします。この挨拶、挨拶の仕方など、どう考えてみても、福澤さんと小泉さんの二人だけの独自なものではなさそうです。それはまさにこの二人の個人を越えた別のものから由来するのです。これが社会です。

ですから、個々人が行動するには、その行動が経済的なものだろうが、法的なものだろうが、どんな生活分野だろうが、必ず、その行動を可能にして、その場に居合わせる人々に分ちもたれている、何かがあるのです。それが社会的なるもの(制度)です。慣習や規範、役割や義務、身体の処方や態度、学習され身につけられた諸々の知識や型、さらには言語、当たり前で当然視された事柄、常識、世間、こういったものが社会的なるものとして、存在する、あるいは人々に共有されているから、個人の行動も組織的な行動も、可能になる訳です。余談ですが、空気を読む読まないがテーマにされるのは、逆に社会的なるものが画一的に成り立ちにくい現代を象徴しているでしょう。誰もが同じ社会的なるものを前提にしていれば、空気は読まれて当然、空気など無いかのように思われて当然なのです。

感情に話を戻せば、普通なら、感情といえばそれは心理的な現象であり、個人的な現象だと思われている訳ですが、そこに社会的なものを感情社会学は見いだします。たとえば感情規則、これは人々が社会的な規則に応じて感情を経験しているということを言います。入学式にふさわしい感情、面接にふさわしい感情、初対面の人に挨拶する時の感情、こういったものが社会的に決められているというのです。あるいは感情管理、これは人々がその場にふさわしい感情を自分で作り上げることを言います。感情といえば、コントロールの利かない生理的な出来事だと思われがちですが、実は人々は意図的に感情を自分の中に作れるのです。そして感情労働、これは感情をまさに労働商品として人々がやりとりしていることを言います。このように、感情の社会学では、個人的心理的生理的だとされる感情のあちこちに、社会を発見するのです。

他の社会学でも基本は同じで、それぞれの分野や出来事の中に、まわりに、社会的なるもの、制度を見いだすのです。この態度を身につければ、あなたの好きな事柄を「社会学する」ことができるようになります。

 

それでは最後に、いくつか、社会学を学ぶ上で頭の片隅に置いて欲しい注意事項を並べてみましょう。

       社会学の初学者のためのテキストや参考書は、最初に述べたように、ちまたにあふれています。ですが、あまりお薦めしません。私は社会学を研究し教えていますが、社会学のテキストを読んだことはありませんし、社会学の概論のような授業も受けたことはありません。「概論」とか「イントロダクション」として受けた授業はありましたが、実際には、非常に狭い範囲の理論的立場が講じられていただけです。つまり、社会学全体をカバーするようなテキストもなければ参考書もないのです。このことを了解した上で、何冊ものテキストを読めればそれにこしたことはありません。それでも私たちの通信教育課程では、この点を前提にして、なおかつ有益なテキストを選んでいます。

       社会学辞典/事典は、初学者には向きません。どの項目も何が書かれているのか、むしろ混沌としてしまうかもしれません。すべての事典の類いは中級以上の人向けです。たとえばドイツ語を学ぶためには、ドイツ語辞典が必要でしょうが、みなさんにとって、それは独和辞典でしょう。社会学の辞典事典は、いわば「独独辞典」です。社会学の概念を、日常的な平易な言語で解説してある項目は、むしろ例外です。もちろん果敢な人には、「社会学/社会学辞典」を手にとって、少しづつ社会学という言語を身につけるのも畢竟かもしれません。

       社会学は、社会的なるものを説明するのですが、その土台は、社会的なるものを観察したり、リサーチしたりする、いわゆる社会調査です。街に出て人々の動きを観察する。実際に調べたいと思っている人々と同じように行動したり生活したりする。質問紙を作成してアンケート調査、じっくり話を聞かせてもらう聞き取り調査、などなどです。自分の部屋にこもっていては実は、社会学はできないのです。もちろん、ネット環境の充実により、自分の部屋から多様な素材や、多様な人々に出会うことが可能になりました。その意味では、自分の部屋で社会学ができるようになったと言えますが、それでも、外の世界や人々を知ろう、出会おうという意志がなければ、社会学という営みは成り立ちません。

       社会学をするとして、自分だけで悦に入るのは間違いです。他の人々に向けたアウトプットが必要です。レポート、論文、口頭報告、あるいは書籍など、いろいろな形態でアウトプットが作成されるでしょうが、大事なのは、それが誰かに向けられているということです。つまり、自分とは違う他の人に何かを伝える訴える呼びかける作業だということです。無理矢理レポートを書かされたと感じる人がいるかもしれませんが、それでもなお、誰かに向けて文章は書かれます。ですから、自分以外の誰かに何かを説得しようとする意志をもって書くことが大事です。

       社会学をするとして、どこに素材があるのか迷うかもしれません。あるいは、何から何まで社会学の研究対象になると聞いてしまうと、何から手をつければいいのか分からなくなるかもしれません。まず自分の得意分野を定めることです。営業経験が豊富な人、モノ作りを仕事にして来た人、経理畑だったり、人事が専門だったり、あるいは、小説好き、育児を終えたり真っ最中だったり、看護や介護の仕事、グルメやファッション、などなど、あなたの得意分野や好きな事柄を見定めることから始めましょう。「これは社会学になるでしょうか」という問いは意味ありません。「これを社会学にする」のです。

 

 テキストの話を最後にしましょう。分厚く価格も高めのテキストですが、著者は数いる現在の社会学者の内、トップスリーに数えられるだろうイギリス人のアンソニー・ギデンズです。その構造化論、再帰的近代化論、あるいは具体的な社会政策への提言(旧ブレア政権のブレーンでした)、それらの理論的主張や提言は世界中の社会学者に議論されています。その彼が著した『社会学』では、社会学が世界の多様な問題にどのように関わるのか、その場合の視角(パースペクティヴ)がどのようなものであるのか、が丹念に描かれています。ある意味、壮大な大河ドラマを見せつけられるような印象を持ちます。みなさんに希望するのは、この大河ドラマをすべて端から端まで等しく読むこと、ではありません。

 むしろ、まずは全体を横目で流しながら、自分自身にフィットする問題意識や対象への接近方法、使用される概念体系など、それらを探り当ててください。そのように考えると、この分厚いテキストは何本もの鉱脈を内にもった山脈のような趣があります。この山全体をすべて制覇することは難しくても、自分にとって(あくまでも、あなたの生にとって)貴重な鉱脈を探し当てること、それは可能でしょうし、それが大事です。みなさんもこの荘厳な山を前に、うろたえることなく、一歩一歩、ご自身の宝を掘り出してください。幸い、この山には、たくさんのガイドや道しるべが備えられています(学習のための、細目次、概念整理や質問や参考文献や参考ホームページなど)。ご心配なく。